禨(きざし)の里

1.赤岩

 赤岩は中之条町六合地区の南端、白砂川の段丘に位置している。幕末から昭和初期にかけての養蚕農家が残されており、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。背後に連なる岩山が西日に照らされ赤く染まることが地名の由来だとされている。

 赤岩にいつ頃から人が住み始めたのか正確に特定することはできない。隣区の広池遺跡や字林檎ノ木に点在する散布地(遺物がみられるが性格が明確でない遺跡)などから、少なくとも縄文中期後半にはこの界隈に人々が定住していたことが分かる。

 

2.縄文

 縄文時代は約1万6,500年前から約3,000年前。世界でも最初期に現れた土器の使用が特徴となる。土器の形式から大きく分けて、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。日本列島内には九つの文化圏が成立していたと考えられている。これらは互いに独立した地域文化ではなく、かなり広い範囲で交易が行われ、その際に必要とされる高度な知識が共有されていたようだ。

 縄文の住居跡などの寸法には350mmを単位としたモジュールが広い地域で見られる。縄文尺と通称されるこの単位は、運用にあたっても興味深い法則がある。

 青森県三内丸山遺跡の六本柱建物跡は、隣り合った柱がすべて4200mm間隔で並んでいる。これを350mmで割ると12。柱の本数は6。他の一般住宅に掘られた炉の縦横比率は4、3、2で測られる。縄文人が12進数の知識を持っていたかは定かでないが、明らかにこれらの数値を意図的に使用している。秋田県大湯環状列石から出土した土版には1から6までの点が打たれており、縄文人が数の概念を記録していたことが分かる。また6は3+3で表されていて彼らが数値計算を行っていた可能性も考えられる。

 六本柱建物跡の対角線の延長は春・秋分の日の出日没方向、長軸の延長は夏至の日出と・冬至の日没方向、南中時南側柱の影は北側柱の中点を通る。このような天文知識を持っていた事と12進数的な数の操作を行っていた事から、彼らが暦を持ち、それをよりどころにした宗教的行為を行っていたのではないかと推測できる。

 

3.パワースポット

 パワースポットとされる場所はもともと自然崇拝による信仰の場であることが多い。山、大岩、大木、川、湖、湧水など、それらは先史時代より大地の力を受ける神聖な場所であった。その痕跡は今日でも、神話、口碑、民間伝承、遺跡・遺物などに見ることができる。あるものはその時々における流行の宗教・信仰に取り込まれ、あるものは誰にも顧みられることなく忘れ去られていった。

 この場所や物体自体に力があるわけではない。人々の集まる契機がたまたま顕れることが始まりとなる。何かの事件が起きること、場所を見つけ、整え、しつらえることで契機をつくることができる。

 史前より受け継がれた伝承を背景として「ここに来るとよいことがある」という思い込みが形成され、事実をその方向に選択するバイアスがかかる。選択の偏りが蓄積されることで、次第に現実への影響が現れてくる。

特定の場所と結びつけられた逸話はくちづてに伝播してゆく。やがてそれが人々のあいだで事実として認識され、人々に認識されることでそれは事実となる。

 パワースポットがあるから皆が訪れ祈るのではない。皆が訪れ祈るからそこがパワースポットになる。

 

4.ささやかな後押し

 人間の行動はうわさや先入観に影響を受ける。予想と期待感が相場への圧力をかける株式市場の変動、不確実な情報源を根拠にした流言と、それを検証せず拡散することによる実社会への作用。

 一方で思い込みによる選択の偏りから形作られたパワースポットは、そこを訪れることで将来への漠然とした希望を得ることができる。先行きへの可能性を得ることで、自らにとって好ましい事態を呼び込む行動を無意識に選択するようになる。それは予期せぬ災厄への心構えと、万一巻き込まれた際にそれをうまく受け流す逃げ代を見つけ出すことにもつながる。

 災厄に巡り合わせてしまうのは偶然だが、災いを避けようとする人々の選択は必然で切実な要請だ。

 

 縄文人の平均寿命は短く、生き残るためには多大な労力が必要であった。その記憶は恵みを与える自然への感謝と崇拝につながり、彼らが去った後もかたちを変えつつ継承された。

 かつて赤岩で暮らしていた縄文の人々が大地から得た力とは、彼ら自身が見いだし、集い、祈る場所から送られた、未来を生きて行くためのささやかな後押しだったのかもしれない。