美術家 木村吉邦のサイトです。

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2023.09.08

 

永劫の匱(はこ)

 

吾妻地域は中之条と信州上田を結ぶ街道沿いにあり、高崎へ向かう経路の結束点であった。またこの地域は軍事用の馬の生産地としても知られており、中世より各地の勢力が往来し、せめぎ合う場所であった。街道から離れた山里の赤岩地区では、そのため、戦乱で荒廃した地域からの避難民が流れ着くことも多かった。彼らは着の身着のまま、その日を暮らすことに精⼀杯であったが、一方でそれまで過ごしてきた普段の生活が無くなることへの不安を抱いていた。そこで、自分たちの日常を紡ぐためのささやかな祈りの場をつくることにした。

 

避難民の立場であるため資金はない。戦災で焼け残った住居の部材を持ち寄ったありあわせの材料を使い、建物とも言えない簡素な匱(はこ)をつくった。彼らが用いた木材は炎で焼かれ表面が炭化していた。現在の視点では、炭化層のできた木材は内部への酸素供給が断たれ、それ以上燃えにくい性質を得ることが分かっている。焼け残り材を用いた祈りの場は、偶然にも耐火性能を備えたシェルターのような役割を果たすこととなった。

 

逃れてきた人々は、自分たちの日常を破壊した災厄が遺したものを、自分たちの永続と再生の象徴として形にした。享和3年(1803)8月24日、赤岩地区全域を焼き尽くす大火事が発生した(安原繁安家所蔵「萬歳重寶帳」)。赤岩地区のほぼすべての建物が罹災する中で、祈りの場は、焼け落ちることもなく無事だったという。

 

永劫の匱(はこ)は、戦禍の焼け残り材を使用した自然発生的な祈りの施設。匱(はこ)とは、木製の大きな入れ物を意味している。炎で焼かれ表面に炭化層の形成された木材が偶然にも耐火性を有した構造となり、赤岩大火にも耐える祈りの場になったと想定した。それを今回、19世紀前半に再建された東堂の隣に設置する。

 

昨今の社会情勢を上州吾妻地域の歴史へ翻訳し、その状況の中に何か救いのようなものはないかと考えて制作した。

 

 

 

2022.11.14

 

木村がデザインを担当した木質空間が、2022年度グッドデザイン賞を受賞しました。

「木材の新接合法を活用した木質空間」

ウッドデザイン賞 2022 も同時受賞です。

新しい木造技術を未来へ継承し、新しい伝統木造を現代につくりだす試みです。 

 

 

 

吾妻の空駕籠

 

かつての吾妻地域では物資の輸送路として河川を盛んに利用していた。林業では伐採した木材を筏に組み、吾妻川経由で江戸へ送っていた。また、嘉永7年(1854)には、原町、山田、岩井の3つの河岸が、農産物や炭、湯花などを輸送するために水運を開始している。その作業の際に吾妻川の横断はどうしても必要となる。現在のような高架橋が無い時代は深い谷底へ降りて橋を渡らなくてはならなかった。しかし、その橋は増水の度に流されてしまう。
この作品では、吾妻川を支障なく横断するための工夫として、凧で浮かび上がる駕籠が考案されたと仮定した。自らの知恵と試行でより良い生活を求める、人々の努力をかたちにする。
空駕籠は、大凧の浮力を利用して人や荷物を対岸まで移動させる装置。大凧の下部に人が乗る駕籠を吊り下げ、十分な風力を得たときに使用することができる。風の強い上州の気候を生かした仕組みと言える。
凧に乗って飛行するアイデアは歌舞伎や講談に登場する忍者の姿で知られている。これらは空想の乗り物であるが、実際に凧での飛行を実現している例もある。
アメリカのサミュエル・フランクリン・コーディ( Samuel Franklin CODY 1867~1913)は、自ら特許を取った凧を使用してマン・リフティング(凧で人を浮かべるショー)を行っている。極地探検家のアムンゼンもマン・リフティングを体験し、その写真が残っている。

凧の世界史14:日本の凧の会会報第93号 2017年6月より引用

 

このような知見を吾妻の人々が持っていたかは不明だが、試行の末に同様の発想を得た可能性もある。吾妻川の下流、渋川で上三原田歌舞伎舞台 文政2(1819)を建造した水車大工永井長次郎は、さまざまな機構を考案した「からくりや」として有名だった。ある時、折り鶴を模した飛行装置を試作するも滑走のみで終わったという。長次郎のこうした試みは、吾妻の人々に伝わっていたかもしれない。

永井⻑次郎が前橋藩の依頼で作った「万代橋」