虚構が拡散され実体化した例

 

アグロー(Agloe)

 

 米国ニューヨーク州ロスコーに、かつて地図上でのみ存在した架空の街。1925年ごろ、地図製作者のオットー・G・リンドバーグとアーネスト・アルパースが作成した地図に、他者の複製を防ぐために記入された。その後アグローの地名は、ガソリンスタンドで配布される彼らの地図と共に拡散していった。

 1930年代にこの地で営業を開始した民宿は、地図に記載された地名を根拠として店名にアグローを取り入た。

地図作成者の二人と地図出版大手ランド・マクナリー社との係争が発生した際には、逆にこの建物の存在により地名の存在が証明され、訴えを取り下げなければならなくなる。

 2008年にアグローを題材とした小説「ペーパータウン」が出版されると、そこに登場するアグロー商店を実在の店舗と勘違いする者が現れるようになった。

 いつの頃からかGoogleマップにアグローが記載されるようになり、ウィキペディアにもアグロー商店が記述される。そしてそれを根拠に、アグローの実在性はより高まっていった。

 現在は閲覧者の指摘を受け、Googleマップ上のアグローは削除されている。しかし、いまだに現地を訪れる人は後を絶たず、アグロー訪問の報告はネット上に増え続けている。

 

日本におけるはやり神

 絶対神が存在しないという日本の宗教的特徴が、はやり神という現象を引き起こすことがある。

 文化二年(1805)川崎鶴見川に人骨が流れ着いた。そこに塚を築いたところ、願掛けをすると願いがかなうとの噂がひろまり、江戸中から群集が押し寄せた。近所には参拝客を目当てに売店が立ち並び、塚は立派な社殿になったという。肝心の祀られた人骨が誰なのか、利益を言い出したのが誰なのかが不明のまま、熱狂とも言えるような現象になった。

 寛永のころ、江戸の旗本佐久間家にお竹という女性が奉公していた。信心深く、自身の食事を減らして貧者に分け与えていたという。ある日彼女のもとを訪れた行者が、お竹を大日如来の化身であると告げる。お竹の死後、佐久間家の主人は彼女の出身地である庄内の羽黒山黄金堂境内にお竹大日堂を建設し、生前の姿をかたどった像を納めた。

 宣伝のために作られたであろうこの縁起が江戸で大当たりし、お竹大日堂に奉納された国芳の於竹大日昇天図など、まざまな芝居や錦絵、講釈の題材となっている。

於竹大日昇天図 嘉永2年(1849)

国際日本文化研究センターDB

http://db.nichibun.ac.jp/ja/ より

 

笑顔という報酬

 システムとしての社会は完璧に無謬・無矛盾・無償であることはありえない。

 多人数の協調をモデル化する公共財ゲームのシミュレーションでは、常に間違えるプレイヤーを少数導入することで社会的ジレンマの解消がおおむね達成できる。また別のパラメータを設定したシミュレーションでは、プレイヤーが互いに適度な報酬を与え合うことで全体の協調が実現される。

 安堀雄文記念館のような作品をつくり続けることは、社会の中へほんの少し、罪の無い誤謬を送り込むことにつながる。作品そのものが失われた後も関連情報は流通し続け、その情報は匿名の人々のフィルターを介することで実体化してゆく。

 SNSを通じて拡散された際、多くのコメントは安堀雄文の実在を信じていた。そして真相を知らされたとき、事実と信じた人々の反応はほぼ同一であった。

 物語のあまりのでたらめ具合と、制作物にかけた多大な労力のバカバカしさに、みな破顔一笑してしまうのだ。

 

 誤謬を含み込んだ社会は、システム全体としては、より強固に完全なものに近づいてゆく。

そして、アートを媒介として実体化したそれを体験した個人としては、笑顔という報酬を与え合うようになってゆくだろう。